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絵画の鑑賞における時間と距離について -草間彌生『無題[無限の網]』-

絵画の鑑賞における時間と距離について -草間彌生『無題[無限の網]』-

 

  1. はじめに

 

草間の絵画作品における鑑賞経験の時間の中で、『アンチ・アクション-日本戦後絵画と女性画家』の著者である中嶋泉は、痕跡と指標、象徴と形象の二つの領域を観客に行き来させていると述べている。絵画のイメージはその時間の中で入れ替わりながら立ち現れ、二つの領域を相互に移動し、観客に行き来させるところにネット・ペインティングの特性があるとし、観客と絵画の間に両者を引き寄せる現象として現れるのがネット・ペインティングであるとしている。

では、その現象が起きている時間は一つの流れとして存在するのだろうか。絵画を見る過程の中で新たに効果を生み出すとされる、その時間-観客が絵画を見る時間―はそれ単体でしか存在し得ないのだろうか。また、絵画の持つアクション性と時間はどのような関係を持っているのか。

本論では、草間彌生《無題[無限の網]》(1962)、油彩・カンヴァス を中心に、中嶋泉『アンチ・アクション』(2019)、第3章 草間彌生の「ネット・ペインティング」-政治的に から、絵画の鑑賞における時間軸と作品の時間軸について、ネット・ペインティングの分析、読解を踏まえて論じたい。

 

  1. 《無題[無限の網]》の分析

 

草間彌生《無題[無限の網]》は現在(2021年7月)、2021年2月から東京都のアーティゾン美術館の展覧会、STEP AHEAD:Recent Acquisitionsにて展示されている。

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図1

《無題[無限の網]》は、よく近づいて見るとわかる通り、弧が密集している。(これは近距離で観察して初めて分かることだ)ロザリンド・クラウス『独身者たち』の第三章 アグネス・マーティンにおいて述べられるカーシャ・リンヴィルの三つの距離を援用して記述すると、まず、遠距離(ここでは約8mほど離れた状態のことを指す)では、孤の一つ一つは視認することが出来ない。どんな絵画作品でも鑑賞者はまず遠距離から絵を見ることになる。無限の網は、遠距離からだと粗いテクスチャと細かいテクスチャの面が最初に見えてくる。なにか爬虫類の皮膚のような、少し凹凸があるように感じられ、絵に一歩近づくとその凹凸と面が徐々に変容(メタモルフォーゼ)していく。

中距離(3〜5mほど)になると、絵の表面の凹凸がくっきりと見え、白い部分が膨らんでいるように見える。脱皮している爬虫類の皮が新しい皮膚から浮いてくる、そんなイメージが湧く。孤の目が細かい部分は新しい皮膚で、カンヴァスにピッタリと張り付いている。そしてまた一歩ずつ近づくと、今度は目の細かい部分が徐々に浮き上がる。

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図2

そして、近距離(約10cm〜1mほど)で、絵具の素材感や筆跡がはっきりと確認できる。遠距離ではわからなかった、網の目が孤の集合で出来ているということが確認できる。また、テクスチャの細かさは孤の大きさによって形成されているということがわかる。そして網の目という印象から、鱗がみっちり生えているような表面のようにイメージが変容していく。孤の一つ一つを見ていくと、ところどころに絵具が溜まって固まっている部分がある。絵具がたまる部分は、草間が孤を描く際に始めに筆を置いた場所だと見ることができる。孤の最後は筆に含まれる絵具の量が減っているため、掠れていく。絵具のたまりは常に孤の左側にあり、孤は左から右へと筆を動かして描かれていると考えられる。また、鱗の向きはバラバラで、ある程度向きが揃った鱗の集合が、孤の部分の方向を変えながら隣接している。草間がカンヴァスを回しながら描いたか、カンヴァスの周りを回りながら描いていたのではないかと思われる。遠、中距離で膨らんでいるように見えていたカンヴァスの白い面は、近距離で観察するとレイヤーを一枚奥にした、つまりはカンヴァスそのものとして見える。逆に絵の具が乗っている部分は、絵の具そのものという物質がカンヴァスに乗っているため、レイヤーが一枚上になっている。

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図3

絵のインデックスが立ち上がると、この無限の網の始まり、つまり無限はどこから始まったのかを画面の中から探すように視線を絵全体へと移し、まるで地図を見るかのような観察の仕方で、絵を見るようになる。

 

  1. パラレルな時間軸

 

中嶋は、ネット・ペインティングにおける観客の視線は、痕跡=指標 象徴=形象の間を行き来し、その時間の中で作品が立ち現れるとしている。では、観客が遠距離-中距離-近距離を行き来して鑑賞する時間は、無限の網が持つ時間とどのように絡み合っていくのだろうか。

遠距離で鑑賞する観客は、それ(鑑賞者)単体の時間軸を持っている。鑑賞という時間軸と作品の時間軸は交わらない平行線のように流れつつも、観客の足が作品に近づくに連れて、鑑賞の時間軸は直線から徐々に作品の時間軸に引き寄せられるように緩やかに弧を描く。一方で、作品の時間軸はただ直線に流れ、そこに在る。

ネット・ペインティングは作品を見ることによって絵画の見る人の間に立ち上がり、両者を引き寄せる現象として現れる。(中嶋、p.203)

このような記述を前提とするならば、作品自体は観客に一方的に寄る事はなく、作品が生み出す現象が観客の時間軸を作品へと引き寄せる重力として存在するのではないか。

徐々に作品へ引き寄せられていく鑑賞の時間軸は、作品を近距離で観察し筆痕を視線で追い、観客の視線が孤を描いた時、二本の線が重なり一つの直線となる。観客は鑑賞に時間をかければかけるほど、作品の持つ時間軸と何回も交わるため、観察をするほどそこに存在する時間軸は重なり、まるで一本の直線のように見えるのだ。ネット・ペインティングでは、パラレルに進む2つの時間軸が鑑賞によって交叉している。

《無題[無限の網]》の右隣に展示されている杉全直《袋を持った空間》(図4)と比較してみる。

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図4

遠距離、中距離での観察においてこの作品では初めの方に筆跡を見てとることができる。近づけば近づくほど、逆に作品の物質性が顕著に立ち上がり、近距離では絵具の凹凸や色彩同士の混ざり具合にフォーカスされる。描画時のアクションが大きいと、その分近距離で観察した際の絵画の物質性はより強くなる。《無題[無限の網]》で行われている繊細なアクションは、近距離の観察でのみそのアクションがカンヴァス上で行われていることに気づく。アクションが大きい作品では、遠距離-中距離-近距離で発生する現象の中の時間軸は交叉せず、むしろ近づくほど作品自体の時間軸から反発するように離れていくのではないだろうか。以上のことをまとめると図5のようになる。

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図5

作品の持つ時間軸は、近距離で観客が観察したときに発見する草間の筆の運びの方向や、鱗の向きによって流れが生まれる。

 

  1. おわりに

 

絵画のアクション性と鑑賞の時間と距離には、痕跡のアクションが大きいほど物質性が鑑賞者の時間を押し戻し、小さいと作品自体が現象の中で重力を持ち、鑑賞の時間軸はそれに引き寄せられて交叉する、といった関係性があるということが、《無題[無限の網]》を中心とした分析から考察できるのではないだろうか。

 

 

 

参考文献、資料

 

  1. 中嶋泉『アンチ・アクション-日本戦後絵画と女性画家』、ブリュッケ、2019
  2. ロザリンド・クラウス『独身者たち』、井上康彦訳、平凡社、2018
  3. 草間彌生、《無題[無限の網 ]》1962年頃、油彩・カンヴァス
  4. 杉全 直、《袋を持った空間》、1963年、油彩・カンヴァス