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レンズ雲のゆくえ(今井あこソロダンス)感想

3/28 16:30

 

指と指の間をするりと抜けて行くような、そして握りしめることが出来ないようなものへの探求。

 

一見反復に見える動きにcresc.の記号が付き、宙に霧散する。(または何かに気づくようにハッと収束する?)この作品の中でよく見られたこれら一連の流れが、山へ向かい、山を歩き、そして帰ってくること、つまりその場の現象への探求と共に、踊ることそのものに対して演者が経てきた過程、探求を彷彿とさせる。

 

演者の右手が身体を離れて別個体の感覚器官のように分離して見える冒頭の動きから、徐々に右手が身体へと触覚を伝達していく様がゆっくり時間をかけてわかっていく。それをじっくりと観察する。舞台が少し明るくなるまでのこの時間に、手に汗が滲むくらいの緊張感があった。

 

演者がこちら側に何かを訴えかけるのではなく、演者自身が動きに対して向き合い続け、それが身体の中で何度も循環され、放出されていくようなダンス。その中で誰よりも自分の(そして身体の)強さや弱さを理解しようとしていて、誰のためでもなく演者自身のために踊っている、少なくとも私はそう見えた。その上で、それを私が見ることが出来るのは、とても幸運なことだ。

 

短いので追記も出来たらしようと思いますが、見に行った人はぜひ言葉にしてみてほしいです(それを読みたい)。

卒業旅行記①

 

はじめて一人で飛行機に乗って海外に行く。出発予定の便がずらっと表示されている電光掲示板を見て、予定よりも二十分出発時刻が早くなっていることを確認した。それでも搭乗まで二時間以上あった。喫茶店で飲み慣れた紅茶をテイクアウトし、空港内をうろうろと散策した。成田空港に来るのははじめてではないけれど、高校の修学旅行でニューヨークに行った時以来ここに来たことはない。飲食店はすでに閉まっているところばかりで、暗くなった店内を覗いて、それからディスプレイのメニューの価格を一瞥し、空腹感は出発に向けて少しずつ消えていくだろうと期待した。それに、機内食が離陸後すぐに提供されるとどこかに書いてあった気がする。

 

大きくも小さくもないスーツケースを、閑散とした搭乗手続きのカウンターに預けた。帰りのチケットを提示するように言われたので、スマートフォンに保存してあるオンラインチケットの画面を見せた。

「帰りはチューリッヒ空港ですね。」

「はい、そうです。」

「スーツケースはスルーバゲージになりますのでドーハでお受け取りの必要はありません。」

「わかりました。」

最悪スーツケースがなくても二日間くらいは向こうで困らないよう、背中のブラックダイヤモンド社製のバックパックには薬や着替えを入れてある。しかし雪山用の靴や服はスーツケースの中に入れるしかなかったため、コンベアで運ばれていくそれを目で追いながらロストバゲージにならないように祈った。

搭乗口までの長い動く歩道でペットボトルの水とのど飴を買おうと決め、売店に寄り、消費税が書かれていないのを見てじっと立ち止まった。免税ってやつだ。出国手続きはパスポートをかざしてゲートを通過するだけでよかったので、今の今まであまり出国感がなかった。

 

指定されたゲートの前のベンチに腰掛け、大きな窓越しに見える機体を見た。コックピットの窓がパンダの目の周りの模様みたいで可愛くて、なんとなくスケッチブックにその形を描きとめた。それもすぐに描き終わってしまって、暇になった。搭乗までまだ一時間もある。スマホで両親と連絡を取っていると、次第にベンチは埋まりザワザワとした雰囲気になっていった。他の客は家族連れやグループが多く、一人でいる人はちらほらいるくらいで、でもまあちらほらはいるわけだし(おそらく海外に行き慣れている人ばかりに見えるが)一人でもきっとなんとかなるだろう。

修士論文を書き終えてまず、(留学とかではなく)海外に行くことを決めた。頭の中で一番行ってみたい場所を思い浮かべてみると、そこには山があったので、まずどの山に行くかを決めることにした。しかしどうせ海外に行くならいろんな場所に行きたいと欲が沸々と湧いてきて、結局ヨーロッパを鉄道で縦断するというありきたりな計画になっていた。

 

 

サント=ヴィクトワール山(Montagne Sainte-Victoire)

フランス南部のエクス=アン=プロヴァンスの南東部に位置する山。石灰岩で出来ている。全長が18km以上ある。最高点はピックデムッシュ。1011m。

 

久保⽥成⼦における「ヴァギナ」の復讐と勝利について

久保田成子における「ヴァギナ」の復讐と勝利について

 

はじめに

久保田成子と聞くと一番初めに思い出すのは、『Vagina Painting』とそれに関する久保田のオーラル・ヒストリーである。ここで、『Vagina Painting』は久保田が自らの意思で行ったパフォーマンスではないことが久保田の口から語られた。このパフォーマンスの後、久保田は自らの作品やテキストでしばしば「ヴァギナ」についての言及をするようになった。そこから、久保田にとっての「ヴァギナ」の勝利とはなんなのか?また、復讐とは何への、または誰への復讐なのだろうか?という問いが浮上した。

本論では、東京都現代美術館で開催された《Viva Video! 久保田成子展》をなぞりながら、『Vagina Painting』(1965)と『ヴィデオ・ポエム』(1974)、それに付随した久保田の論考などを元に、「ヴァギナ」が久保田にとってどのようなものだったのかを論じる。また、久保田の作品やテキストの中で頻出している「ヴァギナ」、そしてその「勝利」と「復讐」に焦点を当て、久保田にとっての「ヴァギナ」、そしてその「勝利」と「復讐」とは何だったのかということを、作品とテキストから読み解きたい。

 

1.

2012年1月15日に公開された久保田成子オーラル・ヒストリー[1]で、久保田は『Vagina Painting』(1965)についてこう語っている。

 

手塚:ご自身でその頃パフォーマンスとかそういうのはされてたんですか。

久保田:私はそういうタイプじゃないもの(笑)。

手塚:そうですか?

久保田:見てわあわあ言う方で(笑)。

手塚:でも1965年ですよね、フルクサスのサマー・フェスティバルで、いわゆる《Vagina Painting》をやられたのは。じゃあ、それが初めてのパフォーマンスだったんですか。

[1] 日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

ニューヨーク市マンハッタン、久保田成子自宅にて
インタヴュアー:手塚美和子
書き起こし:金岡直子
公開日:2012年1月15日
更新日:2018年6月7日

http://www.oralarthistory.org/archives/kubota_shigeko/interview_01.php

 

久保田:でもあんなのはその、戯れみたいなもんで。自分を彫刻家と思ってたから。ちょっとこの人たちと違うなって思ってた。

中略

手塚:じゃあ、あのパフォーマンスはそれ一回のみで。

久保田:ええ、もうあんまり興味なかったんですよ。あれはもう、やれやれって頼まれてやったんで。もうしょうがない。

手塚:そうなんですか。それはマチューナスに頼まれてやったんですか。

久保田:ナム・ジュンにもマチューナスにもね。私のほんとにやりたいことじゃなかったから。だからその後ちょっと距離を持ちましたよね。

手塚:フルクサス自体と。

 

このように、『Vagina Painting』が久保田本人の意思のもとで行われたものではなかったということが、インタビューの中でわかった。図1はジョージ・マチューナスが撮影したパフォーマンスの記録写真である。

『Vagina Painting』は、フルクサスのイベント「永続的なフルックス・フェスト」において披露されたパフォーマンス作品である。女性器(ヴァギナ)に装着した筆で敷かれた紙の上を動いて描くというパフォーマンスで、実際のパフォーマンスを見た久保田の仲間達の証言によれば、広報用の写真は下着に筆を取り付けたものを使用しているが、本番は実際に筆を女性器(ヴァギナ)に挿入していたと推測される。[2]

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図 1 ジョージ・マチューナス撮影、1965

[2] viva video 久保田成子展覧会図録p.25

本番で実際に女性器に筆を挿入していたのかは明らかにされていないが、パフォーマンスを実際に見た人物の証言から推測することができる。本論の4章で、その1人である靉嘔がそう語っていることを引用している。

 

2.

『Vagina Painting』において、久保田のヴァギナはナムジュン・パイク、ジョージ・マチューナスの2人、つまり男性のツールとして扱われていたようにみえる。

Art in the Makingの第五章、Tooling upでは久保田の『Vagina Painting』についての記述がある。ここでは、このフェミニスト的なパフォーマンスについて久保田は、女性の身体に付随する生産性の問題に対しての理解を、改良された画材によって巧みに変えて見せたと論じられている。久保田本人の意思が発端となり始まったパフォーマンスであればこのように記述することは不可能ではない。しかし、2人の言われるままにやれと言われたからやっただけという久保田の発言から、また『Vagina Painting』以降の久保田の作品から、「ヴァギナ」というものが持ち主の手から離れ、持ち主以外の人間によって表現や議論のツールとなっていく過程が見えてくる。つまり、『Vagina Painting』においての「ヴァギナ」は完全に久保田の手を離れたものとなり、そこでは女性の身体が持つ生産性の問題が女性抜きにして語られるような場が生まれている。そしてそれと並行して語ることができるのは、久保田の『Vagina Painting』以降の作品や運動から、「ヴァギナ」は次第に久保田の手に取り戻されていったというような見方もできるということだ。

3.

『Vagina Painting』以後の作品で、ヴァギナにについて直接言及がある作品の一つに、『ヴィデオ・ポエム』(1974)(図2)というヴィデオ彫刻がある。

風で膨らむ袋から、久保田のセルフポートレートの映像が見える初期のヴィデオ彫刻であり、背後にはスライドで下記の詩が映し出されている。

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図 2  viva video! 久保田成子展、筆者撮影

ヴィデオは女性器(ヴァギナ)の復讐

ヴィデオは女性器(ヴァギナ)の勝利

ヴィデオは知識人たちの性病

ヴィデオは空室のアパート

ヴィデオはアートの休暇

ヴィデオ万歳……

 

袋の中に映る映像は、久保田がポータパックを入手した最初期に撮影されたものである。

 

私は何も好きこのんでソニーのヴィデオ・ポータパックを背中にかついでいるのではない。しかし、日本の古典的な女性が背中に赤ん坊を背負ったように、赤ん坊も生めない現代の女性は、何を背中に背負うことができるのか。[3]

 

久保田にとってポータパックが一つの重要なツールであったことは間違いない。また、ヴィデオ・ポエムに付随するものとして、『ヴィデオ生活の背後で』というテキストがある。

 

男性は思う。「我思う、ゆえに我あり」。

女性である私は感じる。「我出血す、ゆえに我あり」。

近頃私は毎月ハーフインチ……3Mまたはソニー製……で1万フィートの長さの出血をする。

男性は毎晩私を撃つ=撮る……私は抵抗できない。

私は真っ昼間、露光過多で燃え上がるヴィデオまたはTV撮像管で、男性を打ち=撮りかえす。

 

ここでは、女性が毎月経血を出さざるをえない「ヴァギナ」がソニー製のポータパックに置き換えられ、撮られたヴィデオは流れる経血に喩えられている。

一般的に生理というものは、多くの女性から嫌われるものである。理由は言うまでもなく、それが痛みを伴い女性の身体に大きく影響を与えているからだ。しかしながら、初潮を迎えるとわけもわからないまま赤飯を炊かれ、自身の「ヴァギナ」から初めて血が流れました!ということを家族や親戚にアピールすることになってしまう。生理に関しておおっぴらにされた後、社会は掌を返したようにそのことについてできるだけ隠して生活するように、女性に強要する。そして、出産というタイミングで再度「ヴァギナ」が晴れて表舞台に登場するというわけだ。「ヴァギナ」や生理の役割というものはそういったものとして捉えられてきた。

そのような文脈の中で「ヴィデオ・ポエム」を読み解いていくと、久保田は「ヴァギナ」や生理それ自体を否定することなく、女性の身体に付随する生産性の問題から脱臼させようと試みていたと見ることができるのではないだろうか。そして、赤ん坊も生めない現代の女性は、背中に何を背負うことができるのか、という問いにたいして、いわゆる女性の生産性が社会から押し付けられたものであり、そのような機能を持っていない(あるいはそのように機能することを女性自身が望まなくても)「ヴァギナ」でもヴィデオを生み出すことができるという応答でもあると考えられる。

ソニー製のポータパックが久保田にとってはツールでありながらも、出産するという目的以外で(「ヴァギナ」=)ポータパックがあり、ヴィデオを生み出し、客体ではなく主体となって男性を撮り返す(ヴァギナを取り返すとも読めるかもしれない)ものとして存在するのではないか。

 

[3] 久保田成子「ヴィデオ-開かれた回路」、『芸術倶楽部』第9号、1974年6月30日発行、173-181頁、viva video!久保田成子展展覧会図録収録。

4.

話は『Vagina Painting』に戻るが、京都市立芸術大学芸術資源センターが公開している、靉嘔のオーラル・ヒストリー[4]の中で、当時のフルクサスのパフォーマンスついて靉嘔自身が語っている部分がある。

 

ヤリタ:ヴァギナペインティング。

靉嘔:ヴァギナエペインティングね。それなんじゃないですか。それの挿し絵なんじゃないですか。

柿沼:そうなんですか!

靉嘔:成子は何もしなかったけど、それだけしたんだよね。後で「おなか痛い、おなか痛い」って。痛いだろうねえ(笑)。

柿沼:ねえ。パイクさんが「やれ」って言ったらしいですね、それ。

靉嘔:まあそうでしょうね。

 

「成子は何もしなかったけど、それだけしたんだよね。[5]後で「お腹痛い、お腹痛い」って。痛いだろうねえ(笑)。」とある。この話がどの程度正しいのか、靉嘔の記憶が定かかどうかは知る余地がないが、パフォーマンスから生み出された痛みは少なくとも久保田の「ヴァギナ」というヴィデオの源のようなものからは発しえないものであったことは間違いのないことだと言える。「ヴァギナ」というものは単なる生産性を孕んだものではなく、所有者自身のものでありそれが何を生み出すのか「ヴァギナ」の所有者のみが決定することのできるものだということを考えるならば、なおさら『Vagina Painting』は久保田のフェミニズム的な考えからはほど遠いものになってしまっているように見える。

ヴ(・)ィデオ芸術は、ヴ(・)ァジャイナのヴ(・)ィクトリーであり、ヴ(・)ェンジェンス(復讐)である。

ヴィデオ芸術は、その繁殖化と腐蝕化において、インテリの頭脳の反VD(反性病)である。[6]

 

論考の中でも、作品の中でも久保田は、このようにヴィデオ芸術は「ヴァギナ」の勝利であり、復讐であると繰り返し語っている。「ヴァギナ」の復讐とは、『Vagina Painting』における傍観者と社会への復讐であり、勝利とは、久保田自身の「ヴァギナ」が久保田の手によって取り戻され、「ヴァギナ」自体が女性の身体に付随する生産性の問題から離れ芸術を生み出す源として存在することを社会に提示したことであったのではないかと考える。

 

[4] 靉嘔 オーラル・ヒストリー

2014年6月28日 靉嘔アトリエにて インタビュアー:ヤリタミサコ柿沼敏江 書き起こし:永田典子

https://www.kcua.ac.jp/arc/ar/ay-o-oral-history_jp/

[5] “それ”、とは『Vagina Painting』のパフォーマンス自体のこと。

[6] 久保田成子、前掲書、173-181頁

 

参考文献

1.「久保田成子オーラル・ヒストリー」、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ、ニューヨーク市マンハッタン、久保田成子自宅にて、http://www.oralarthistory.org/archives/kubota_shigeko/interview_01.php

2. 「Viva Video! 久保田成子展」展覧会図録、河出書房新社、2021
3. 『芸術倶楽部』第9号、1974年6月30日発行、173-181頁

4. 京都市立芸術大学芸術資源センター、靉嘔 オーラル・ヒストリー

2014年6月28日 靉嘔アトリエにて インタビュアー:ヤリタミサコ柿沼敏江 書き起こし:永田典子、https://www.kcua.ac.jp/arc/ar/ay-o-oral-history_jp/

5. リン・エンライト『これからのヴァギナの話をしよう』、小澤身和子訳、河出書房新社、2020

 

 

2のつく日

 

2のつく日はツインテールをする。

 

私の好きだったアイドルはツインテールをしなかった。

いつも彼女の隣に必ずいたあの子は、必ずツインテールをしていたが、いつの間にか大人しい髪型しかしなくなった。

 

2のつく日でもツインテールをしない時もある。自分に自信のない日だ。両手で髪の毛を二つに纏めて持って鏡を見ても、荒れた草地に一際飛び出る、伸びすぎた雑草のようにしか見えない。

ツインテールをするのは2のつく日だが、それは自分に自信のある日でもある。

結び目を気持ち高めにして鏡を見ると、ツインテールがまるでひとりでに(ふたりでに?)動き出さんばかりに生き生きとしてみえる。

 

家に帰り、鏡を見て少しボサボサになったツインテールを撫で付けるようにおさめる。

アゴムを引っ張りながらツインテールをほどくと、髪の毛が数本抜け落ちて、それからすぐに頭皮がじわじわと痛くなってくる。

重力に逆らって無理矢理結んだ髪の毛が、下へ下へと落ちていくのを頭皮全体で感じ、痛む頭皮を指先で抑えていると、なぜだか極度に虚しさを覚える。しっぽをしゅんと垂らした犬の気持ちを想像して、ズキズキと痛む頭皮のためにもうツインテールはやめようと決める。恥ずかしさなどではなく。

 

 

 

 

絵画の鑑賞における時間と距離について -草間彌生『無題[無限の網]』-

絵画の鑑賞における時間と距離について -草間彌生『無題[無限の網]』-

 

  1. はじめに

 

草間の絵画作品における鑑賞経験の時間の中で、『アンチ・アクション-日本戦後絵画と女性画家』の著者である中嶋泉は、痕跡と指標、象徴と形象の二つの領域を観客に行き来させていると述べている。絵画のイメージはその時間の中で入れ替わりながら立ち現れ、二つの領域を相互に移動し、観客に行き来させるところにネット・ペインティングの特性があるとし、観客と絵画の間に両者を引き寄せる現象として現れるのがネット・ペインティングであるとしている。

では、その現象が起きている時間は一つの流れとして存在するのだろうか。絵画を見る過程の中で新たに効果を生み出すとされる、その時間-観客が絵画を見る時間―はそれ単体でしか存在し得ないのだろうか。また、絵画の持つアクション性と時間はどのような関係を持っているのか。

本論では、草間彌生《無題[無限の網]》(1962)、油彩・カンヴァス を中心に、中嶋泉『アンチ・アクション』(2019)、第3章 草間彌生の「ネット・ペインティング」-政治的に から、絵画の鑑賞における時間軸と作品の時間軸について、ネット・ペインティングの分析、読解を踏まえて論じたい。

 

  1. 《無題[無限の網]》の分析

 

草間彌生《無題[無限の網]》は現在(2021年7月)、2021年2月から東京都のアーティゾン美術館の展覧会、STEP AHEAD:Recent Acquisitionsにて展示されている。

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図1

《無題[無限の網]》は、よく近づいて見るとわかる通り、弧が密集している。(これは近距離で観察して初めて分かることだ)ロザリンド・クラウス『独身者たち』の第三章 アグネス・マーティンにおいて述べられるカーシャ・リンヴィルの三つの距離を援用して記述すると、まず、遠距離(ここでは約8mほど離れた状態のことを指す)では、孤の一つ一つは視認することが出来ない。どんな絵画作品でも鑑賞者はまず遠距離から絵を見ることになる。無限の網は、遠距離からだと粗いテクスチャと細かいテクスチャの面が最初に見えてくる。なにか爬虫類の皮膚のような、少し凹凸があるように感じられ、絵に一歩近づくとその凹凸と面が徐々に変容(メタモルフォーゼ)していく。

中距離(3〜5mほど)になると、絵の表面の凹凸がくっきりと見え、白い部分が膨らんでいるように見える。脱皮している爬虫類の皮が新しい皮膚から浮いてくる、そんなイメージが湧く。孤の目が細かい部分は新しい皮膚で、カンヴァスにピッタリと張り付いている。そしてまた一歩ずつ近づくと、今度は目の細かい部分が徐々に浮き上がる。

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図2

そして、近距離(約10cm〜1mほど)で、絵具の素材感や筆跡がはっきりと確認できる。遠距離ではわからなかった、網の目が孤の集合で出来ているということが確認できる。また、テクスチャの細かさは孤の大きさによって形成されているということがわかる。そして網の目という印象から、鱗がみっちり生えているような表面のようにイメージが変容していく。孤の一つ一つを見ていくと、ところどころに絵具が溜まって固まっている部分がある。絵具がたまる部分は、草間が孤を描く際に始めに筆を置いた場所だと見ることができる。孤の最後は筆に含まれる絵具の量が減っているため、掠れていく。絵具のたまりは常に孤の左側にあり、孤は左から右へと筆を動かして描かれていると考えられる。また、鱗の向きはバラバラで、ある程度向きが揃った鱗の集合が、孤の部分の方向を変えながら隣接している。草間がカンヴァスを回しながら描いたか、カンヴァスの周りを回りながら描いていたのではないかと思われる。遠、中距離で膨らんでいるように見えていたカンヴァスの白い面は、近距離で観察するとレイヤーを一枚奥にした、つまりはカンヴァスそのものとして見える。逆に絵の具が乗っている部分は、絵の具そのものという物質がカンヴァスに乗っているため、レイヤーが一枚上になっている。

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図3

絵のインデックスが立ち上がると、この無限の網の始まり、つまり無限はどこから始まったのかを画面の中から探すように視線を絵全体へと移し、まるで地図を見るかのような観察の仕方で、絵を見るようになる。

 

  1. パラレルな時間軸

 

中嶋は、ネット・ペインティングにおける観客の視線は、痕跡=指標 象徴=形象の間を行き来し、その時間の中で作品が立ち現れるとしている。では、観客が遠距離-中距離-近距離を行き来して鑑賞する時間は、無限の網が持つ時間とどのように絡み合っていくのだろうか。

遠距離で鑑賞する観客は、それ(鑑賞者)単体の時間軸を持っている。鑑賞という時間軸と作品の時間軸は交わらない平行線のように流れつつも、観客の足が作品に近づくに連れて、鑑賞の時間軸は直線から徐々に作品の時間軸に引き寄せられるように緩やかに弧を描く。一方で、作品の時間軸はただ直線に流れ、そこに在る。

ネット・ペインティングは作品を見ることによって絵画の見る人の間に立ち上がり、両者を引き寄せる現象として現れる。(中嶋、p.203)

このような記述を前提とするならば、作品自体は観客に一方的に寄る事はなく、作品が生み出す現象が観客の時間軸を作品へと引き寄せる重力として存在するのではないか。

徐々に作品へ引き寄せられていく鑑賞の時間軸は、作品を近距離で観察し筆痕を視線で追い、観客の視線が孤を描いた時、二本の線が重なり一つの直線となる。観客は鑑賞に時間をかければかけるほど、作品の持つ時間軸と何回も交わるため、観察をするほどそこに存在する時間軸は重なり、まるで一本の直線のように見えるのだ。ネット・ペインティングでは、パラレルに進む2つの時間軸が鑑賞によって交叉している。

《無題[無限の網]》の右隣に展示されている杉全直《袋を持った空間》(図4)と比較してみる。

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図4

遠距離、中距離での観察においてこの作品では初めの方に筆跡を見てとることができる。近づけば近づくほど、逆に作品の物質性が顕著に立ち上がり、近距離では絵具の凹凸や色彩同士の混ざり具合にフォーカスされる。描画時のアクションが大きいと、その分近距離で観察した際の絵画の物質性はより強くなる。《無題[無限の網]》で行われている繊細なアクションは、近距離の観察でのみそのアクションがカンヴァス上で行われていることに気づく。アクションが大きい作品では、遠距離-中距離-近距離で発生する現象の中の時間軸は交叉せず、むしろ近づくほど作品自体の時間軸から反発するように離れていくのではないだろうか。以上のことをまとめると図5のようになる。

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図5

作品の持つ時間軸は、近距離で観客が観察したときに発見する草間の筆の運びの方向や、鱗の向きによって流れが生まれる。

 

  1. おわりに

 

絵画のアクション性と鑑賞の時間と距離には、痕跡のアクションが大きいほど物質性が鑑賞者の時間を押し戻し、小さいと作品自体が現象の中で重力を持ち、鑑賞の時間軸はそれに引き寄せられて交叉する、といった関係性があるということが、《無題[無限の網]》を中心とした分析から考察できるのではないだろうか。

 

 

 

参考文献、資料

 

  1. 中嶋泉『アンチ・アクション-日本戦後絵画と女性画家』、ブリュッケ、2019
  2. ロザリンド・クラウス『独身者たち』、井上康彦訳、平凡社、2018
  3. 草間彌生、《無題[無限の網 ]》1962年頃、油彩・カンヴァス
  4. 杉全 直、《袋を持った空間》、1963年、油彩・カンヴァス

コンビナート・コンビナート

 

この時間は、守ろう綺麗な海。

ハイウェイから望むコンビナートは真っ白な煙を吐いている。守ろう綺麗な青い海。こちら側の空は青いのに、向こうの空はなんだか霞んでみえる。

ハイウェイ、海の上をぐねぐね曲がって、遠ざかるコンビナートを横目に、守ろう青い空。青い海を守ることは青い空を守ることだ。吐き出される白い煙が水蒸気であることを祈る。そんなのは都合のいい思い込みで、結局、灰色に変わるグラデーションの空の青い部分だけを綺麗だ綺麗だと言って見るだけだ。

コンビナート、コンビナート、コンビナート。一本だけ回る風車はただの象徴になり役割を失った。青い空と白い風車しか画面には映さない。反対側でガンガンフル稼働のコンビナートをハイウェイが隠して。

 

 

ブルーライトヨコハマ

 

すごいスピードで左目の視力が悪くなっている。新しく作った眼鏡は以前のよりも度が強めで、右目は裸眼でも問題ない視力だったのに、左目が悪くなるにつれて少しずつ悪くなっているので、右のレンズにも度が入った。右と左のバランスが合ってないからなのか、裸眼だと目と額がズキズキすることがある。左目の方が右目より大きいので、もともとバランスの取れた顔面ではないが、新しく作った縁の輪郭が大きめの眼鏡をかけるとそれが誤魔化せているような気がする。

大学の中に吊り橋という彫刻作品がある。人が右腕と左腕を横に伸ばして、足は揃えてバランスをとりながら橋を渡っているようなポーズの彫刻で、ブロンズで出来ている。面白いのは、正面から見ると腕が波打つようなシルエットで見え、近くに行って両腕を観察すると、右腕の上腕に物凄く力がかかっていて、一方左腕は力を抜いて伸ばしているような形をしていることで、右と左に均等に力をかけていないということがわかる。吊り橋を渡るのに身体の重心がどちらかに偏っていたら、バランスを崩してしまいそうだ。だから私は、この彫刻が吊り橋を渡っているのではなく、この彫刻の身体が不安定な吊り橋のように見えるから、吊り橋という名がついているのではないかと思った。

眼鏡屋さんで、レンズはどの種類のものにされますか?と聞かれ、種類とは、と戸惑う私に店員がブルーライトカットのものは2種類あって、一つはちょっとカットするのでもう一つはすごいカットするやつです、と言ったので、じゃあちょっとカットするやつで…

電車の窓、左後ろから差す陽光が、左目のレンズに焦点を合わせることで青く光っているのが見えた。次は横浜に止まります。