集積所

てきとうに文章を書いたりします

身体と場所

 

 

私が初めて自身の身体を力強く認識したのは、5歳の頃に両親と一緒に八ヶ岳連峰の1つである赤岳に登頂した時だ。赤岳の頂上は、2899m。八ヶ岳連峰の中で最高峰である。幼い頃の曖昧な記憶のはずなのに、頂上に到達したときの地面、空気、高さ、全てを鮮明に覚えているような気がする。そして、これらの要素が自分の身体が頂上に存在しているということを強く自身に刻み付けていた。幼心にも、自分の脚で”その場所へ行く”という行為をその時初めて自分の身体で認識したのだと思う。

 

それから約20年弱が経った、学部2年のタイミングで私は自身の足で歩くという行為ができなくなった。幼少期からの持病により手術を受けざるを得なくなり、春休みのタイミングで1ヶ月半ほど入院した。
手術後は1週間ベッドの上での生活で、医者からの指示で上半身を起こすこともできなかった。1週間という短くも長い時間、私は歩く、ましてや地面に足をつくということすらできなかったわけだが、まるで歩くことのできない赤ん坊の時に戻ったような、しかし歳を取って衰弱し動けない老人になったような、過去であり未来である(かもしれない)なんとも不思議な感覚になった。


その後、リハビリが始まった時に手術後初めて地面に足をつけた。なんの変哲もないただの大学病院のリハビリ室で、両足をつけて立った時、私は赤岳の頂上に立った時のことを思い出した。そして、自身の身体がそこにある、ということを身体を使って初めて自覚したあの時と、身体を自分の力で動かす事を意識的に行うリハビリという行為が重なっていることに気づいた。山登りは、その場所、地形に合わせて身体を動かすことに、日常生活以上に意識的になる行為だと思うが、リハビリテーションも、地面、床、階段、坂、などの場所を自分の身体に意識的に力を加えて動かす行為であると、約半年ほどリハビリをしていて感じた。


国際障害者世界行動計画の定義によれば、「リハビリテーションは、身体的、精神的、かつまた社会的に最も適した機能水準の達成を可能とすることによって、各個人がみずからの人生を変革していくための手段を提供していくことをめざし、かつ時間を限定したプロセスである。」とある。これを読んだ上で、私の幼少期の山登りという行為が、人生を変革していくためのきっかけ、手段、つまりはこれから長い年月を生きていく上でのある種のリハビリテーション〈rehabilitation〉であり、「身体と場所」に意識的になる機会であったことは確かだったのだろうと思う。

 

※都市と芸術の応答体2021(RAU)に応募したときに提出した文章です